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社交ダンスの鹿鳴館

有名である鹿鳴館(ろくめいかん)は、社交ダンスにおける歴史でも習いましたね。「外国人接待所」として明治期に建てられました。外務卿の井上馨が計画を推進して、日本が文明国であることを不平等条約改正のために、外国人にアピールすることを目的として建てられ、「鹿鳴館外交」ともその政策を呼びました。外国賓客の迎賓館らしいものは、そのときまでは存在せず、三田の蜂須賀邸や改修した浜離宮の延遼館などを借用といった形で利用していたのです。現在の千代田区内幸町にある、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地に、鹿鳴館の建設地は決まり、明治13年(1880年)に着手されて、規模変更も途中にあり、約3年かけて明治16年、(1883年)7月に落成となりました。

煉瓦造2階建築であり、1階は大食堂の他に談話室や書籍室などがあり、2階は3室の間取りで舞踏室があり、すべて開け放つとなんと100坪もの広間ができて、バーやビリヤードなども設備されていました。詩経「鹿鳴の詩」から、鹿鳴館の名前は引用され、落成の祝宴当日というのは井上馨の誕生日でもありました。外国人接待所として、社交ダンスのための鹿鳴館は建築されましたが、外国からの賓客接待のみではなく、11月3日、明治天皇誕生日の天長節の祝賀会などの行事をはじめ、国内行事にも多く利用されるようになりました。当時最も世間の注目となったのは、社交ダンスなどの舞踏会、夜会、婦人慈善会などがありました。

ちなみに1887年4月20日に行われた伊藤博文首相夫妻が主催の仮装舞踏会である「ファンシー・ボール」は、鹿鳴館を利用しないで、首相官邸で行われました。非難の声の「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などがあがるなか、「亡国のきざし」と非常な罵りをこの仮装舞踏会開催は受けました。憂国の感を勝海舟が深め、政府に21か条の時弊を挙げて建白しました。そしてますます鹿鳴館外交へに対する風当たりは厳しいものとなり、世間の大反対が条約改正案に起こりました。そして、井上外務大臣は面目を失い同年9月に辞任となりました。その後の鹿鳴館は、宮内省に1890年払い下げられ、1894年には華族会館に地震被災後修復され、払い下げられて、徴兵生命保険に1927年売却、1940年に取り壊されたのです。

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